ケノティズム

妄想メインです

修羅の対義語はヤオイである説

世の中を自分の好きなもの,嫌いなもので二分してレッテル貼りしはじめたら老害の始まりだし,麻薬に限らず現実逃避にはもっともらしい言い訳の文化が育っていくものだが,ここでは私にとっての宇宙の根源的な二要素についての思想(現実逃避)を紹介したい.

対義語と宇宙の源

「なぜ何もないのではなく,何かがあるのか」これは宇宙の奥深さの根源を表す重要な謎である.そしておそらくこれは最期まで決して正確には分からない謎だろう.だがある程度なら予想することができると思う.

まず問いの形に注目してみよう.「なぜ何かがあるのか」本来はこれだけでいいはずの問いは,わかりやすさのために「何もないのではなく」と補足説明されている.「何もない」のがある種自然だというのが我々の直感であるということである.それはなぜか.理由を求めるという行為は,情報の圧縮と関わるからだ.「〇〇はなぜか?そういうものだからだ.」これでは周囲の状況と関連付けた情報の圧縮が行われていない.結果は全くの新情報となったままだ.何も学び取ることのできないこの理解の形を理性は嫌う.そしてその極限が,情報が完全に消失する「何もない」という状況なのだ.理性は0すなわち完全な死を求める.

しかし主観的には宇宙は存在している.これに対する代表的な態度は「ナマの事実」と呼ばれるらしい.先程の「そういうものだから」という開き直りだ.究極の問いだからこそ,開き直りが必要なのかもしれない.しかし確かめようが無い上に,具体的に「何が」あるのか,そもそも「ある」とは何か,それも同時に「ナマの事実」として与えられているはずだ.well-definedでなければならないとはいえ,考えられる宇宙のモデルは沢山ある.そしてそのモデルが現実を(まだ)単純化したものであると判明するたびに,別の極論が頭によぎる.

「全ては存在する」つまり無限に「ナマの事実」があるという極論だ.これは特定の「ナマの事実」のみがある場合より条件が少なくて済むが,厄介な無限と矛盾がまとわりついてくる.ラッセルのパラドックスや巨大数にまつわるパラドックスは「全て」を扱う難しさを示している.恣意性なしに「全て」を扱うのは不可能なのかもしれない.

このように「何もない」「そういうもの」「全てある」という3つのスタンスが比較できる.主観の世界を「何もない」と定義する意味はなく,残り2つがまともに見えるかもしれないが,この3つは数学における極限としての,0,不定形,無限,とつながりを持つという意味で意味深(笑)なのである.

例えば自然数からランダムに数を取り出すことを考える.どの数も同じ確率で取り出すとしたら,どのくらいの大きさの数が出てくるだろうか.この確率分布は密度関数で定義できず,値の平均を定義することや、実際にランダムに数を取り出す計算はできない.自然数から自然に一つ数を取り出す.これだけのことでも「ナマの事実」を必要としているのである.

「ナマの事実」を不定形として捉えると,極限と関連付けて解釈できる.0から∞の間のどこかを基準なしに選ぶ、これは不定形で定義されないのだった.議論の範囲外(≒宗教的)ではあるが,0と∞によって「ナマの事実」である我々の宇宙が生じたと捉えると,初めの問いへの「ナマの事実」という答えを少し受け入れやすくできる.思考する上で根源的な0と∞(もっと怪しい言い方をすれば無矛盾と矛盾)によって、ナマの事実が生じたと思えるからだ.

身近な対立構造

物事の根本に現れる0と∞の対立構造は,これだけではない.宇宙がいつ始まりいつ終わるか,どのくらい大きいのか,未来はどのくらい予測できるのか.こういった問いの背後にもいつも見え隠れする.意外なところでは,死と生,革新と保守,男と女のような身近な対立構造も,この根源的な対立構造と関わる部分がある.

死と生の関わりについて.死は汎心論の立場からすれば(?),全ての源意識が望む安定状態のことである.そして生は定常開放系として安定している状態のことである.
死は0と関わりが深いと思う.安定状態は,面白いものがないという秩序を作る.これによって宇宙では様々な近似が可能になり,様々な(全ての?)科学が意味を成す.巨大な「ナマの事実」の要素たちがエントロピーの増大を目指し、0に憧れたのか巨視的に単純なシステムとして振る舞おうとするから,世界に構造が生まれ、秩序立って見える.巨視的に単純なもの(=秩序)を目指す欲求、これが死への欲求に対応する.

一方で生は∞と関わりが深いと思う.死に向かわない様々な記憶を持ち,それを維持しようとする.その記憶は淘汰を受けなければ,多様になっていく.要素がエントロピーの増大を望んでも,宇宙は未だ複雑さに満ちている.拡散しようとすれば慣性が邪魔をする.核融合しようとすれば電磁気力が邪魔をする.技術の規格を統一しようとすれば技術者の利権が邪魔をする.記憶を,知恵を維持するにはしがらみが必要なのだろう.巨視的にも複雑なものを維持し増やしていこうとする欲求,これが生への欲求に対応する.この欲求は死への欲求との折り合いを探す中で洗練され,しがらみは使命を担い,尊厳を持つようになる.

修羅の対義語

タイトルを回収してみる.「修羅」の本来の意味はきちんと知らないが,よく聞く修羅の意味は,ある目標のみを重視して他を軽視したせいで自分も他人も不幸にする地獄のような状況ではないかと思う.その立場を弁護するなら,目標の達成は難しく,優先度の低いものを削ぎ落とすのは必要な代償かもしれないと言える.非難するなら,伝統や尊厳や他人を軽視して自分たちの理屈を押し通せば,それが稚拙であるほど大きな綻びを生み出すと言える.つまり言い換えれば,「修羅」は「合理性を重視した際の地獄」という意味だ.

では対義語である「合理性以外を重視した場合の地獄」はなんだろうか.もちろんこのような地獄が生じるかは状況と運が決めるところなので,保守派の方にケンカを売る意図はない.「修羅」の方が問題なことが宇宙には多いかもしれない.そうだからか,この対義語を聞いたことがあまりないのだが,最近近い言葉を見かけた.「やおい」というのは腐女子向け二次創作を指す言葉として有名であるが,その語源は「ヤマなしオチなしイミなし」の略だったという.伝統や表現したい場面が乱雑に詰められ,全体としての物語の構造を失い,魅力を感じない読者が増えがちな創作物を指していたのではないかと思う.これは物語に対する形容だが,現実の出来事にも流用できるだろう.そこでの意思決定が合理性以外のものに縛られすぎたせいで全体として達成すべき目標を達成できなかったという地獄のことである.

偏見とコズミックホラー

合理性を追求することは,当人が理解できるほど単純な状況を目指すという意味で,死の欲求に近いものがある.合理性以外の伝統や他人の意見などはしがらみで目的が分からないものも多いので,こちらは生の欲求に近いと考えられる.

「修羅」が男性的な好みに近く(?),「やおい」が女性的な好みに近い(?)のは,男女*1の奥に潜む0と∞の対立構造の一つの現われのように思える.もちろんこれは公的な意思決定や現実の対人関係の基準にするべきではないほど大雑把で原始的(=差別的)だ.だがこのように0と∞の対立構造は日常の様々な場所に顔を出し,我々にトレードオフを迫り,人生に果てのない意味と謎を与える.「何もないのではなく,何かがある」ことがいかに難しく,人生を形成しているか.自分は日々このコズミックホラーに杞憂している.

*1:雄雌と表現したほうが正確かもしれない.