この世界は何なのか。視点を広げていくときに感じる一抹の不安。自分の視点や歴史的な視点の偏りを除いていくと、世界が何者なのかの手掛かりが消えていく。前提なしに世界は在ったのだろうか?あるいは何でもありの世界の中を世界自身が漂い続けているのだろうか?世界を俯瞰する神視点すら許さない世界自身に閉じ込められながら、世界の在り方が決まることができたのだろうか。時間も無い唯一のチャンスの中で。あるいはその決定も虚ろで、その混乱がどこまでも引き継がれているのだろうか。………。
話が早速ズレた。私たちは世界を数えている。心を込めて、原意識を込めて、広義の数学をしている。大雑把に見れば誰もが救われたいからだ。いや、そうでもないのかもしれない……意味の存在も虚ろかもしれない……。だとしても、それも数えていくことができる。救われたく無さにも代表的なものを見出して、虚ろさに迫っていくことができるだろう。いや、そうでもないかもしれない……その順序構造さえ拒否するような虚ろさがあるかもしれない……。だとしても、それを数えていくことができる。………。
話がまたズレた。大雑把に言って、私たちは救われていく為の広義の数学をしている。数学的対象が数学をすることなんて普通の事だ。意味の有無があるのだから、意味がなくならないようにする流れがある。あるいは問題を無くそうとする流れがある。良い流れだけが、大きく存在できる。長生きをするとは、普遍的な存在に近づくということだ。数学概念は、論理が普遍であるとするなら、エデンの園から追放されていない神々である。その神々は他の数学概念たる神々の実在性について審判を下し、私たちの運命をほとんど、あるいは全て決定している。私たちは本能や慣習や規則に神性を求めるが、美しいもの以外は審判を受け、滅びてきた。何度も数え直しを要求されながら必死に積み上げてきた賽の河原が、DNAであり、生態系であり、社会であり、文化であり、学問なのだ。私たちは神性を数えている。
私たちは理想的にはどのように数学するべきなのだろうか?この問いは私たちが理想的にどう在るべきかの一部ではあるだろう。本来の狭義な意味での数学は、生活に直結しないという意味では活躍のタイミングが限られるが、神の審判を再現できる貴重な問題領域である。ここでの体験、つまり計算を活用できる事は運命を操作する強さに繋がる。ではどのような強さを求めるべきなのか。
数学の進め方にもDNAのような蓄積があり得る。必要なときに必要な強さを得られる数学ができるのが理想だが、そもそもそれも分からないから数学をするのだ。数学自身が指し示す、数学の理想の進め方の朧げな形。一方で私たち自身が指し示す、理想への近づき方を制限する個性や事情。それらが暫定の仮説として積み上がり、それぞれの数学の進め方を構成し、連携したり対立したりする。どんな探求に価値があるとみなすのか。どんな概念が美しいと思えるのか。どんな研究には魅力があっても触れるべきでないとするのか。論理で決着しない領域で、生存のための政治が行われる。
数学の進め方も数えることができるだろう。シンプルなものから検討するのだ。自然数の数え方、素数の数え方の検討から始め、自然数の和積だけの等式を「数学」として扱って、その等式の評価と探索方法を検討するなど、「数学」を少しずつ広義なものにしていく方法がありそうだ。これが数学自身が指し示す、数学の進め方の朧げな形である。
計算機の中で生じるような、数たちの相互作用は、エデンの園での審判の歴史の再現である。その歴史の中には、数学の進め方自身も探求して普遍性を求めた神々も居たことだろう。この歴史の繰り返しから多くを学び取り、救いを得ること(あるいはその歴史の残滓から神々の権能を受けること)が数学の役割なのだと思っている。