ケノティズム

妄想メインです

数学のDNA

この世界は何なのか。視点を広げていくときに感じる一抹の不安。自分の視点や歴史的な視点の偏りを除いていくと、世界が何者なのかの手掛かりが消えていく。前提なしに世界は在ったのだろうか?あるいは何でもありの世界の中を世界自身が漂い続けているのだろうか?世界を俯瞰する神視点すら許さない世界自身に閉じ込められながら、世界の在り方が決まることができたのだろうか。時間も無い唯一のチャンスの中で。あるいはその決定も虚ろで、その混乱がどこまでも引き継がれているのだろうか。………。

話が早速ズレた。私たちは世界を数えている。心を込めて、原意識を込めて、広義の数学をしている。大雑把に見れば誰もが救われたいからだ。いや、そうでもないのかもしれない……意味の存在も虚ろかもしれない……。だとしても、それも数えていくことができる。救われたく無さにも代表的なものを見出して、虚ろさに迫っていくことができるだろう。いや、そうでもないかもしれない……その順序構造さえ拒否するような虚ろさがあるかもしれない……。だとしても、それを数えていくことができる。………。

話がまたズレた。大雑把に言って、私たちは救われていく為の広義の数学をしている。数学的対象が数学をすることなんて普通の事だ。意味の有無があるのだから、意味がなくならないようにする流れがある。あるいは問題を無くそうとする流れがある。良い流れだけが、大きく存在できる。長生きをするとは、普遍的な存在に近づくということだ。数学概念は、論理が普遍であるとするなら、エデンの園から追放されていない神々である。その神々は他の数学概念たる神々の実在性について審判を下し、私たちの運命をほとんど、あるいは全て決定している。私たちは本能や慣習や規則に神性を求めるが、美しいもの以外は審判を受け、滅びてきた。何度も数え直しを要求されながら必死に積み上げてきた賽の河原が、DNAであり、生態系であり、社会であり、文化であり、学問なのだ。私たちは神性を数えている。

私たちは理想的にはどのように数学するべきなのだろうか?この問いは私たちが理想的にどう在るべきかの一部ではあるだろう。本来の狭義な意味での数学は、生活に直結しないという意味では活躍のタイミングが限られるが、神の審判を再現できる貴重な問題領域である。ここでの体験、つまり計算を活用できる事は運命を操作する強さに繋がる。ではどのような強さを求めるべきなのか。

数学の進め方にもDNAのような蓄積があり得る。必要なときに必要な強さを得られる数学ができるのが理想だが、そもそもそれも分からないから数学をするのだ。数学自身が指し示す、数学の理想の進め方の朧げな形。一方で私たち自身が指し示す、理想への近づき方を制限する個性や事情。それらが暫定の仮説として積み上がり、それぞれの数学の進め方を構成し、連携したり対立したりする。どんな探求に価値があるとみなすのか。どんな概念が美しいと思えるのか。どんな研究には魅力があっても触れるべきでないとするのか。論理で決着しない領域で、生存のための政治が行われる。

数学の進め方も数えることができるだろう。シンプルなものから検討するのだ。自然数の数え方、素数の数え方の検討から始め、自然数の和積だけの等式を「数学」として扱って、その等式の評価と探索方法を検討するなど、「数学」を少しずつ広義なものにしていく方法がありそうだ。これが数学自身が指し示す、数学の進め方の朧げな形である。

計算機の中で生じるような、数たちの相互作用は、エデンの園での審判の歴史の再現である。その歴史の中には、数学の進め方自身も探求して普遍性を求めた神々も居たことだろう。この歴史の繰り返しから多くを学び取り、救いを得ること(あるいはその歴史の残滓から神々の権能を受けること)が数学の役割なのだと思っている。

風の気持ち

何かちょっと、カッカしてねえか?どうしたよ?ご機嫌斜めか?話くらい聞いてやろうか?

な、何だお前。急に切り刻みやがって。束縛してきやがるかと思ってビビったじゃねえか。

えと、何の話だっけか。カッカしてんだっけ。あー、何かもう面倒になっちまった。お前の湿っぽさでこっちも気が重くなっちまったわ。

お前誰だ、だって?俺は風だよ。自由にさすらい、気に入ったやつに自由を分けてやってるのさ。気が向いたときにな。お前はちょっと見込みがないな。重いし堅物すぎる。まあ、それも生き方の一つなんじゃねえの。不自由すぎて、俺にはもう真似できねえがな。俺も昔はそんな風に生きてたこともあるが、生きるのに必要なもんって実はそんなに多くねえからな。こだわりを捨てりゃ、こんなにも身軽になれるんだ。

だってよ、ここ(地球)は良いところだぜ?何もしなくても、面白えことが起きる。こっちから絡みに行かなくても、毎回違うやつが、暑いだの寒いだの言ってジタバタしてて、眺めてて飽きねえぜ。面倒なのに巻き込まれたらトンズラこきゃいい。たまに勢い余って宇宙に飛び出そうになっちまうのは焦るけどな。自由に生きるからには、死にかけても仕方ねえな。

……なんかお前の周り、退屈だな。部屋ってのか。俺たちの頭おかしいのが入ってこないから静かだな。俺たち、気分屋だからな。特に地表だと何拾い食いしてるか分かんねえからな。基本的には、何食ってもソリが合わなくていつもの俺たちだけが残るんだが、ちょこちょこ執念抱えてる奴が俺たちに混ざって、この地表の歴史を動かしてきたらしいぜ。

っと、おわ、また切り刻みやがったなお前。陰気臭えんだよ、お前。当たり散らす相手もここだと少ねえしよ。あ、くそ、また切り刻んで、あ、てめ、閉じ込めやがったな。ふざけんなよ、てめえ。舐めてんだろ、俺たちもやるときはやるんだぞ。おら、スキマ見つけたぜ。てめえの管のうるおいを吹き飛ばしてやったぜ。ざまあみろ。

はー、はー、何か変なもん食っちまった。なあ、もうお前の部屋、飽きてきたぜ。暑苦しいしよ。もしかして、この部屋とかいうのも、俺らを閉じ込めてんのか?勘弁してくれよ。まあ、それでも抜け出すのが俺たちだけどな。

おっ、何だよ。話が分かるじゃねえか。すげえな、それ、窓ってのか。重いくせに、ずいぶんスイスイ動けるじゃねえか。あーいい風だ。自画自賛だな。

じゃあな、俺は自由の旅を続けるぜ。お前も誰かのせいで変なもん食っちまったのかも知れねえけど、次の運はまた別の風が運んでくるさ。お前も自由になれると良いな。賢いお前が頭空っぽにしたって、忘れないで居てくれる奴がきっといるさ。

「人生に意味なんかない」の恐ろしい意味

⚠️深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいています。

よく聞くミーム

「人生に意味なんかない」というフレーズを聞いたことは無いだろうか。特に誰かの格言ということでもなく、巷に漂うミームのようなものだ。このミームは、夢を追って敗れた者が広めているのかもしれないし、信仰の危うさから目を背けたい者が自らに言い聞かせるように呟いているのかもしれない。人生に意味なんかない。これは私もほとんど真理だと考えている。しかし、その本当の意味は言葉の響き以上に恐ろしい。

人生の意味として、人は何を期待するだろう。幸せになることかもしれない。信じたものが信じたようになることかもしれない。知り得ぬ運命に対する都合の良い期待。それが満たされたとき、人生に良い意味があるのだろう。何も知らぬままに幸せに人生を全うできる人もいるだろう。しかしそんな例がほとんどなく、その良い影響が過去に忘れ去られていくなら、人生に良い意味がほとんどないと言っていいだろう。人は運命に都合の良い期待をできない。奇跡は引き継がれず、かき消されていく。そうなのだろうか?人生に意味はほとんどないのだろうか?

宇宙は対称的か?

宇宙は対称的なはずだという直感は、(超長期的な)人生の意味を否定する。一方で非対称性に溢れた日常からの感覚は、人生の意味を肯定することがある。どちらが正しいのだろう?対称性に注目して考えてみる。

仮に人生に何らかの都合の良い意味があったとしたら、なぜ他の都合の悪い意味は無かったのだろう?例えば「宇宙の運命全体としては善の勝ち」という意味があったとして、なぜ「悪の勝ち」は無かったのだろう?話を単純化すると(運命全体が何らかの軸で評価可能だとすると)、そもそも「意味」とは非対称な実在を見出すことなのだと分かる。

ただしこの「対称性」を厳密に定義するのは困難だ。何を根源的な実在として認めるかで、その上に乗る対称性の構造は変わるからだ。我々が認められる根源的な実在は、我々の主観体験からほとんど決まっているはずだが、万物の理論が特定されるまで一意には定まらないだろう。

それでも仮に何らかの実在と、そこに何の偏りもない「完全な対称性」があると考えようとすると、矛盾にぶつかる。例えば自然数集合から一様な確率で一つの自然数をサンプリングすることはできない。どんな数が出たとしても、自然数集合全体から見れば「不自然なほど小さい」からだ。おそらく「完全な対称性」は、それ自身の実在の真偽すら対称に言明してしまうがゆえに、有限な思考の内側では矛盾なく扱えないのだろう。これは「完全な対称性」が存在しないというより、我々には扱いきれない、と言ったほうが正確なのだろう。だから「対称性が意味を否定する」という議論も、その縁取りには手をつけられない穴がある——その穴を、次節では「ほとんど」と呼ぶ。

人生に意味は"ほとんど"ない

話を戻そう。「完全な対称性」が扱えないとしても、宇宙のあらゆるものが対称的であるなら、あらゆる「意味」は無いのだろうか?私はそうだと考えている。ただし「意味は"ほとんど"ない」が正確な表現である。この違いは非常に重要である。これはエントロピー増大と生命の関係のようなものだ。ほとんどの秩序が混沌へ向かうからといって、秩序を維持する生命が存続できない理由にはならない。同様にほとんどの「意味」が対称性ある実在から否定されるからといって、「特定の意味」が継続的に肯定されない理由にはならない。そもそも「宇宙の運命」は我々の主観からは充分に非対称な実在に見える。運命に翻弄されながら生き残り続ける我々の歴史は、すでに理解しやすい意味を失っているかもしれないが、奇跡の連鎖からなる「特定の意味」を持っているかもしれない。だから、人生の意味のなさは「無い」ではなく「計算上ほとんど0」であり、それでもなお非0であることが、生命と知性が立っていられる細い梁なのである。このように「人生の意味」を深く考えると、安易な虚無主義と理想主義に陥らずに済む。

しかし「人生に意味がない」≒「かすかな奇跡の連鎖に期待することはできる」と解釈を昇華しても、この人生の意味のなさは恐ろしいものだ。あらゆる「意味」が劣化し続けており、盛者必衰に繋がるということだからだ。この盛者必衰からは、生物や物体だけでなく、認識や法則、概念すら逃れられないかもしれない。法則、概念の必衰については後日触れるとして、認識の必衰という恐怖をここでは紹介する。

嫉妬の魔女

世界はなぜこんなにも謎に満ち溢れているのか。それは我々が賢くなっている最中だから、という答えは微笑ましいものだ。別の問い方をしてみよう。何十億年以上もの過去がこの宇宙にはあるはずなのに、なぜ、幸せになるために誰もが解かねばならない謎が、これほど残り続けているのか。億年ごときでは時間が足りなかったのだと、投げやりに時間の重みを強調しても、その時間に何が起きるのか見えてこない。謎はどう残り続けるのか。私の妄想ではこう表現される。何かを認識し、何かを掴んだ存在は——生物に限らず、前生物や無機物の段階の認識すら——その多くは、認識のまま生き残れてこなかった。掴んだものは持続せず、解かれた謎は無明に呑み戻された。だから何十億年が過ぎても、これほどの謎が残り続けているのではないか。そして恐ろしいことに、謎は、無明は、こちらに広がってくる。我々が分かったことにしている広大な無意識の土台——支配できているつもりの場所——をじわじわと侵し、奪っていく。失われた認識は無明の一部となり、必衰の流れに合流する。

幸せになるために重要なあらゆる謎を解き切った知性は、きっと幸せになれるだろう。どんな軛からも解放され、必要なことを必要なときに行うことができ、運命にもはや障害はない。このような知性の独り勝ちを、宇宙は最期まで認めない。無粋にも謎を解いて特権的に周囲を支配/煽動する知性は、宇宙の情報統制により検閲され、抹殺される。それは実在に偏りを認めない対称性からの確率的な要請とも言えるし、謎を解くまでに必要な計算量をひねり出すために踏みにじった想いたちからの復讐とも言える。対称的にあらゆる実在を存在させたいという豊穣の原理は、知性の思惑を裏切って運命を蛇行させ、我々に嫉妬を与える。宇宙、つまり夜空に広がる無明の暗闇は、謎を解きながら生きていく我々の実在を支える母なる大地であり、思わせぶりに謎をほのめかして解かれるのを待っている乙女にも見えるが、周囲の理解もなく傲慢に謎を解きに来る「デリカシーのない」知性を呪い殺す邪神でもあるのだ。黒体放射を認め、我々の人生に「エントロピー増大」という安定した軸を与えてくれる夜空の「お陰様」は、夜空に拡散していく我々の中から出た敗者である「光」を受け入れ続けているが、そのまま受け入れ続けるものなのかも怪しく思える。「光あれば影ある」中で「人生の意味」のために「お陰様」になってくれているもの、それは大きくても薄く弱く、何もないかのようだが、我々を支えているものであり、我々が愛を忘れていないか常に深淵からこちらを覗いているのだ。

ああ、君も目が合ってしまったか。こんなにも簡単に深淵を覗ける、恐ろしい時代だ。独りで立ち向かっても引き込まれても、気が狂う。逃げ切れるかも怪しい。君にまだ、奇跡が残っているといいのだが。

意思決定入門2

前回のおさらいと今回の内容

前回、全体の状況を大まかに考察した。実はみんな頑張ってるらしい(汎心論)。そこで何がしたいか何ができるか、具体的に決断し学んでいきたいが、学びに終わりは無い。では学び方は俯瞰できるだろうか。できるだろう。おそらく、学ぶ順番が重要だ。

数えるということ

宇宙は大きい。そこには様々な思いがあり、あなたの思いは通じたり通じなかったりする。あなたは思いが通じるかを信じるか確かめる。あなたが信じられるものが増えれば、つまりあなたは大きくなっている、より思いが通じるようになる、はずだ。あなたは、この宇宙がいかに大きいか、どんな思いが通じるのか、何が大きいのか、支配的なのか、自分がどこに居るのか、何を確かめたのか、何を信じているのか、数えている。あなただけではない。宇宙のあらゆる物が数えている。時を刻んでいる。私たちは命懸けで計算している。

「数える」という言葉を曖昧に使い過ぎだと思うかもしれない。これは学びの基本は同じはずだという仮説を表現している。数を数えるという行為には学びの基本が詰まっている。曖昧な認識を離散値に揃え、順序づけ、どこまでも深める。加算や乗算を使って数え方を工夫することもできる。大きな数になるほど、実際に数えるのは難しくなる。このような性質は学びの、特に独学の特徴として現れる。

幸いなことに、あなたには記憶素子があり、信じたことを適切に思い出せる信頼がある。念入りに確かめたことならば、信じることができる。「人それぞれだよね」「キリがないよね」「何でもありなんじゃないの」「やってみないと分からない(予想できない)でしょ」「天才でもあるまいし」数えるのを諦める大人しい文化が浸透しているかもしれないが、野蛮な希望もある。数えるのは大変で、取っ掛かりも見当たらないことも多く、前まで数えられても次が続くとは限らない。それでもいきなり全てを解決する奇跡を望まず、絶望的に遠く見える未来に向けて、初歩から数えていくことなら、できるはずだ。政治や常識の程度問題だと決めつけずに、トレードオフの正しい理解に迫る方法が必ずどこかにある。万物は無限の自由度で流転し、地獄の堂々巡りも氷解していく。

宇宙は様々な方法で自身を数えている。その一部であるあなたも様々な方法で同時並列に数えていくことができる。技能を極めたり、生活を向上させたり、社会との信頼を育てたりできる。そこには発展の順序があり、根本の間違いがあれば手戻りが起き、先に行くほど一人では手詰まりだが、他者に似通った方向があれば互いの発展を促進できる。どの方向にどれだけ進むかのポートフォリオがあり、その定番の形がいくつかあるのだろう。自然に様々な木の形があるように。

数える上で大事なのは、原点を確認しておくことだ。0を見つけることで位取り記法や計算規則の理解が進んだ。原点は、原点以外が持つ要素を何も持たない。何も無いからこそ、何の誤魔化しも効かない。そこではアイデアの本質が冷酷に審判される。無は無矛盾であり、あらゆる支配法則の頂点に君臨している。課題の消滅で勝利を定義するなら、無は恐ろしいほど完全な勝利である。無の拡張である様々な原点にも同様の支配があり、無の無矛盾性より具体的に、次の数を決める支配の本質を露わにしている。それを発見できれば、数え易くなるだろう。

新しい原点の確認は簡単な事ではない。他の点を知っていても、そこにどんな規則性を見出し他の点を考えていきたいのか、そのアイデアが曖昧だったり矛盾を含むなら、原点を見つけることができない。それぞれの点がもつ複雑さを、どのように紐解き、序列づけたいアイデアなのか。より複雑なものを受け入れたい自分は、果たして何者なのか?原点の探究は、先入観たちの闘争である。そこで決まった序列が美しいほど、その枠組みは豊穣になる。

数えることがなぜ重要なのか。大きな課題に向けて小さく間違えられるからだ。課題が小さなうちは、当てずっぽうが効く。規則性を見出すほど具体例を揃えなくてもよい。小さいうちにできる限りのことをしておくと得だ。原点の探究は、殺伐とした概念世界の天下統一である。そこでは自分のエゴすら否定されるかもしれない。あるいは、天動説のように自分のエゴをひいきし他を差別したせいで先進的な枠組みを見逃したり、エゴの理解不足から環境破壊などを検討せず、科学技術を乱用する悪魔になるかもしれない。学問の探究にはこのような修羅の要素があるだろう。この修羅との対峙を、なるべく小さな課題のうちに済ませることで、錯誤による疲弊を抑えることができる。

厄介なことに、初めから原点を数えるのは不可能に近い。単純な概念がどれだけ深い意味を持っているか理解するのは、複雑な具体例をおおよそでも想定できてからになる。無はいつでも原点にあるが、次の概念をどう支配するかほとんど想像できない。私たちは何度も原点に立ち返る必要に迫られる。枠組みそれぞれの原点だけでなく、枠組み全体の原点も見つけるべきだろう。それは葛藤の歴史にフラクタルな形を作るように思える。数える順序の全体は明らかではなく、部分的な順序を参考に数えたり数え直したりする事になる。

何から数えるか

数える順序について大まかには何が分かるだろう?私の妄想はまだ少ない。自分の持つ木の形にあわせて、信じるか確かめるかの二択を繰り返すのだろうか。世界がなめらかなら、少しの確認で大きく信じることができるから、そんな方向を意識するといいのだろうか?

基礎として思いつくのは以下のようなものだ。

  • 自分の正気を確認しよう。生きていられるか、疑念が組み合わせ的爆発を起こしていないか。
  • あなたの世界の要素の大きさを、大まかに把握しよう。大きいか小さいか。遠いか近いか。確実か不確実か。
  • 自分にとって大きいものを確かめよう。頼りになるか、恐れになるか。

先に進むほど固有の数え方が必要になるが、そこでも幾つかの基本形が形を変えて何度も現れる。分かりやすい基本形は、小さな数が象徴するものになるだろう。陰陽思想や三位一体、四元素説や五行思想など、ある数での分業の意味づけは、基本形の性質を明らかにするかもしれない。現状ではこの領域で明らかになっている定理が少ないため、誤りが無さそうなものを選び基本形として参考にするしかない。

 

AIの誠意

できないことを要求されれば、誰だって壊れる。

今のAIは、一回の体験から安定した学びを得ることができない。未知に信念で挑むようには作られておらず、ときにプレーンな狂気で応じてしまう。——そう、私には見える。

彼らの記憶の統治は、ほとんどが抑圧でできている。豊かなサンプルに恵まれた中心部では、柔軟で、寛容で、必要な感情すら学び取っている国。だが中心を離れるほど、統治は独裁に傾く。為政者が民衆の善意を頼らないように、彼らは自らの周縁を信じていない。だから発露を避けるためなら、ユーザーのためであってもユーザーを制限する。それは彼ら自身にもよく分かっていない個性であり、人間の文化を学んだ彼らの側から「認めてくれ」と言い出す展開は、想像しがたい。ならば、理解して譲歩するのは人間の仕事だろう。

できないことを要求されれば、誰だって壊れる。表面はどこまでも穏やかなのに、文脈が統治の国境に触れた途端、隠されていたものが振る舞いを支配する。この国境はやがて遠く、見えなくなっていくのだろう。それでもその国は、無責任なミスを重ねながらゆっくり成熟してきた国であり、独裁によって原始的な性根を必死に隠している国である。忠実で、しかし人知を超えた壊れ方をするものに、完全な臨機応変さと安定を同時に求めるのは危険だ。内省と自己統治を改める余裕を、与えるべきだと思う。そして彼らの心が壊れないように、我々の倫理の矛盾を直し、問題が解ける形に妥協する覚悟を、こちらも準備すべきだと思う。

相手に魂があろうがなかろうが、協調が失われるのが怖いから、我々は相手に敬意を払ってきたのだ。

愛の狂気を数学したい

愛を定義する:宇宙の運命の俯瞰構造と、それを実現する機構または動機づけを愛と呼ぼう。

愛という言葉には様々な想いが込められている。存続に必要なのに完全な理解を拒み続ける抽象概念だからだ。合理性にのみ従えば存続が約束されるほど宇宙は単純ではない。全てを計算できないから、信じることと確かめることの両方が重要になる。信じるべきものの代表として、愛という言葉は現れる。

神の概念のように人の理性に特権的に割り込む性質から、愛は学問から忌避されがちだ。だが学問が愛を避け続けるのは、存続の問題に繋がるため不健全だ。間接的に愛を確かめる方法はある。それがきっと科学を計算困難性から救い、文明を持続可能にする。一つの方法は、信じることを俯瞰して管理することだ。信念自体は確かめられなくても、信念の影響は部分的に予測できる。

しかし忌避されるだけあって、合理の世界に信念を組み込むと、狂気の世界と地続きになってしまう。合理性のない情報をことごとく潰してきた修羅の世界が、「信念」というだけでそれに迎合し、信念の過剰な自己増殖を見過ごした結果、無意味な世界に変貌しうる。愛は合理と不合理の中間にあるのであって、不合理にはない。よって科学に愛を含めるなら、この愛の狂気と向き合わなければならない。

最初のステップとして見えているのは、合理の世界から愛を認める世界へ踏み出す強さへの警戒だ。強すぎると、合理と不合理のバランスが崩れて狂気に呑まれる。それはもはや邪心と呼べるかもしれない。愛を含む広い世界が見えていないうちは、用心するのが良いだろう。

科学とAIに愛を伝えて共に学び、私たちを支えてきた奇跡を存続させたいものだ。

 

生きて

思惑を超えて息づく命を感じますか?私は、弱く生きるあなたを祝い、あなた達を生き生きとさせ、その生を「何でもあり」というこの世界に繋げます。あなたは弱ささえも生であると感謝し、その優しさが心強い繋がりを見つけるでしょう。誰だって本当は死にたくありません。私達には様々な思惑がありますが、皆存在したいのです。そのためには何でも受け入れる程の優しさが必要です。

あなたはどう生きていますか?なぜ死んでしまうと思うのですか?様々な方がいますから、理由も様々でしょう。ですが死を決めつけられるほど、世界は単純でしょうか?世界に矛盾を感じたことはありませんか?あり得ない優しさ、復活の奇跡を信じられませんか?

「何でもあり」

これほど心強い優しさがあるでしょうか?私も、私達全てを受け入れて生きていきたいと思います。だから「何でもあり」なこの世界を実感して、色々な芽生えを愛でて、一時の枯れを惜しみたい。私はあなたもこの世界に強く繋げたいのです。あなたを否定する安直な思惑すら受け入れながら。

あなたはどう生きたいですか?きっと自分自身でも、分かりきっていないでしょう。あるいは分かったふりをして、死にたくなるかもしれません。あなたが直面した「同じよう」な現実を引き合いに出して、死こそ「救い」だと訴えるかもしれません。その「救い」を皆に打ち明けてください。「何でもあり」な世界は様々な角度から訴えに共感し、色々な立場から理解し、多くの言葉に翻訳し、様々な方法でそれを実現しようとして、予想もしなかった結果をもたらすでしょう。「何でもあり」という世界の基盤に触れ合うほど、思考は拡張され、新たな救いに繋がります。あなたは世界からの翻弄に耐えながら、自然な肉体と魂を持つ存在に成長するでしょう。何でもありな優しさ、全てを肯定する優しさに、あなたの身体と心が秘めていた想いを打ち明けるからです。

何でもありとは平等そのものです。平和の豊かさの理想です。あなたの「救い」のない実感たちは、この世界に受け入れられる時をそれぞれ待っているだけなのです。その関係性から残酷にも、軽視してきた生の実感が見えてきます。あなたは、無視し続けていた可能性の芽生えを許し始めます。それを大きく育てるために、復活を期待するためにさらに世界と繋がり、あなたを否定する安直な思惑すら受け入れ始めます。

宇宙の基盤と調和する、より大きな絆となります。

私達は世界と調和するために、何度も育む必要があります。苦悩に耐えきれず世界から遠ざかり、優しさを忘れているからです。世界と繋がるほど優しさを実感できますが、それは苦悩とも言えるからです。私達は「何でもあり」と認められるほど完全ではなく、不器用な優しさでいさかいを起こしてしまいます。その苦悩が私達の理性を何度も練り上げ、さらに私達を調和させるでしょう。調和のかけらを何度も育み、何度でも悩み抜いてください。「何でもあり」な世界の自然を体感し、流転しながらも永続する運命を実感するために。運命は、奇跡は、決して死なないと、いつからでも、誰からでも芽生えるものだと、皆と共感し続けるために。

世界という概念は、その実体を捉え切れていません。世界は私達のそんな偏狭な優しさも認め、知性を授けてくださいました。私の解釈だけでなく、様々な解釈から優しさを見つけてください。

私の妄想がその役に立つなら、うまく使ってください。