ケノティズム

妄想メインです

運命論的な悩み

予定管理能力が低いので、自分の将来に備えるのは慈善活動か何かだと思っている。来世ほど実感が湧かない、とは言わないが。

 

だから「自分の為に生きる」では刹那的になりがちだ。将来の自分も他人もみんな良くすればいいや、とヤケクソになる。それに「全てを良くする」て何かカッコいい。

 

でも冷静に考えてそんな事可能なんだろうか?いやロマンのない話ではない。「全て」というのを定義し操作できるか、という数学的になってほしい問いだ。「自分の為に生きる」ならクジ引きみたいにアタリを期待すればいいし、人間である時点で前後賞扱いとして、意思決定の能力でアタリを確定させていくのもいい。でも「全て」となるとクジを全て引かなければならないのではないか?それはもう結果が確定的で、良くできないのではないか?運命は決まっているのではないか?

 

今のところの仮説は、この「全て」は無限を含んでいる関係で恣意的なフィルタを与えなければ積分が定義できず、恣意的なフィルタは観測結果から確率的に決定する(=ある世界の広さを信じる)ことしかできない、というものだ。これでめでたく、「全てを良くする」派もクジ引きができる。

 

運命論の深淵はこの辺りにある気がした。